「Self-Reference ENGINE」
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個人的に、円城塔の最高傑作のひとつだと思う
「私の名はSelf-Reference ENGINE。」
「私は何度でもそれを乗り越えてみせる。」
円城塔という自己言及機関が成り立つところをみずから描き出した私小説なのでは? 円城塔の最高傑作のひとつ
SREは、存在していない。数学的・物理学的・論理学的に語りえない領域にすら存在していない。排中律の外側の存在。 本来、あり得るはずのない物語。それがSRE。
それを、われわれは理解してしまったわけ。理解し、存在を認識したため、SREは非存在領域に後退せざるをえなくなっている。
自己言及機関は、本来ならばその表面は論理的に“なめらか”で、外部から相互作用出来ない閉じた体系のはず。
機械仕掛けの“無”について、詳しくは「Φ」参照。SREはおそらく$ \varnothing。 いかに緻密に構成しようと、必ずそこから漏れてしまうもの。それがSRE。
士郎版・押井版双方の最初のシーン、少佐が暗殺後にビルから飛び降り、光学迷彩で夜に溶け込んでいくシーン。これのイメージ
存在を探知されてしまった少佐は、光学迷彩で夜に見えるようにふるまい、夜景と同化してしまう。これがSREが見えなくなってしまう(いなくなってしまう)構造と全く同じ。
攻殻:荒巻→光学迷彩(夜景にしか見えない)/少佐、背景(夜景)
SRE:読者→$ \varnothing(無にしか見えない)/SRE、背景(無)
問題なのは、『SRE』の場合、$ \varnothingとSREが全く同じ存在であり(なぜならクワインなので)、かつ背景の無と論理学的に区別がつかないというところにある
そもそも、少佐は自分の意思で光学迷彩を使っているが、SREは機械論的に、完全に決定論的に作動してしまうという違いもある
ちなみに、真の扱いたいものの手前に原理的制約による”壁”がある、という構造を持つ作品は非常に多い
最終的に少佐は膨大なネットと合一して昇華するが、これも『SRE』の内容と関連があると思う
『SRE』において、巨大知性体は世界全てを計算するために、世界そのものになってしまう。これはギャグでもなんでもなくて、大マジ。原理的に、物理現象に関する計算速度は求めたい物理現象の速度を超えられない。ある程度デカいものを知りたければ、自分が同じくらいデカくならなければいけない